昭和五十六年十一月一日 朝の御理解


天地書付


 生神金光大神 天地金の神一心に願


 おかげは和賀心にあり今月今日でたのめい


 信心をさせて頂く上に一番大切なもの、そして教祖様が、いわゆる二代目金光様四神様にこのみ教を沢山書きためさせてそして参ってくる信者氏子に見よい所に貼っておけと、拝めとはおっしゃってない。見よい所に貼っておけとおっしゃっておる。だから家の中の一ばん見よい所にこれを書付を貼って、そして信心の目当てと致しましたみ教が今日では天地書付というようになり、これが金光教の信心、云うならばお題目的に云われるようになり、また最近ではお社拝むというてもねお社が全廃になりましてねそしてこの天地書付をレンにして天地書付所のここはこうしてお社のね門扉が出けたりするようになっとりますけれども御大祭の時にはもうあのう天地書付だけが目当てとして御大祭が奉仕されます。というように金光教のまあいうなら御題目、こりぁ大体はもうあらゆる宗教がね目当てを天地書付におかない限りもう他の宗教で真の助かりようというのはないですね。だから仏教でもキリスト教でも真の人間の幸とか助かりとはここにあるんだとまあ云うならば云うような時代がこない限りもうほかの宗教では助かりはないです。
 というほどしに私は金光教の信心の目当てだけではなくて全宗教の目当てになる程しの大変なものだと、勿論人間が幸福になるという事の視野というか視点においてなんです。だからならこうして金光教の御信心頂いておる者がですねだからならこのみ教えの全て、また合楽理念のすべてというてもよいでしょうが、この心の状態が開けたり、頂けたりする事のための教えばあっかりだというていいですね。
 だからこりあ本気でならこの天地書付を唱え言葉だけにせずに、自分の身にこれを自分の一家にこれを頂きおし広めていかなければならんと私は思います。昨日、ここの田主丸の上に石垣という所がある。そこから長年合楽におかげを頂いとるおじいさんがおられますが、ここ毎日自転車で日参してみえます。大変に私と同じで耳が遠い。だから二人でお話する時にゃちょっと面白いようにあるです。ね どっちも耳が遠いとぢゃもん。そればしんから分かりなさらにぁでけんですもん。そりゃなかなか熱心で毎朝御理解の塗板のあれを写して帰られます。昨日はねなんかこう軸を出されますもん。何だろうかと思いよりましたら先生あのうこういう物を持って来て今私は自分の部屋六畳の部屋一間に神様をお祭りしてまあ自分がもう先年奥さんがおばあちゃんが亡くなられ、七十やんがて八十近くでしょう。で自転車でやっぱり毎日参ってみえる。もう半年くらい前には自動車からはね飛ばされちからもう所がおかげで怪我もなんもせずにもう自動車のその運転手さんが病院につれていこうちいうたそうですが、いんやあ、私が年寄りのぼとぼとしよるけんでご迷惑かけましたさあ云ってくださいと云うてそのまあ薬代一つ取らなかった。それでもやっぱりなんか後遺症的なものがちょっとあって一か月位はお参りが出けん位にはありました。又最近はまあ若い者はそのあげなめにあうとってからこりもせずにと云うてまあ子供達は申しますけれども、やっばり自転車でお願いをしてお参りをしますが私をはじめ家族中の者がこのみ教を頂きゃおかげ頂くというようなみ教えを何かこれに書いて下さいと云うて   をした紙をもってねその軸がそんなもんでした。
 で昨日私それに天地日月の心、これが合楽の芯というてもよいのだからと私がその軸に大きくかいてやりましたけれどもそれだけではなら家族のものやらが分からんだろうからまた別の白紙に天の心とは地の心とは日月の心とはという意味を一か条一か条別に意味を書いて渡しました。ね皆さんももうそれこそ耳にたこのできるように聞いておられる事です。天の心とは美しい心なんだ地の心とはいわゆる土の心黙って納めるというような心、日月の心とは、ねいわゆる実意丁寧神信心という事を云われるが、とにかく実意でなからなければならない、だけではないそれが丁寧でなからなければならない。それは日月のごとく実意で丁寧でなかららなきぁならない。私はそれを書き終わってから思いましたんですけれどもね、和賀心になるという手立てはこれだと私は思いましたです。
 ね 例えば本気で美くしゅうなろう本気で全てのことを黙って受けようそしていい加減な事は許されない。もうそれこそ実意丁寧にそれを行じて行こう。それだけの事なのだ。
和賀心になる為にはというのじぁなくてそういう、云うなら信心に取り組ませて頂くといやと云うても和賀心は備わってくるし出来てくるんだという事です。しかもそれは、ならおかげは和賀心にありと仰せられるのですから、どうでもやはり先ず自分の心の汚い心から美しい心。まあ云うならば自分で自分の心が拝みたいような心を目指す事である。ねこりぁなかなか生れつきに云うならばいろいろいな性格の人がありますよね。根性のよい人、悪い人、美しい人、きれいな人ありますけども、ねまあどんなでもいい教えに基づいたらどんな人でもその美しい心を目指させて天の心を目指して頂く手立てが合楽理念に説いてある。
 昨日は金光青年が送って参りました。この頃からこれの執筆しておられる川辺という方二人がここへ一晩止まりでここの信心をこれに雑誌に乗せたいというので沢山の写真をここに入れながらずいぶん長い、”生き生きと神様を感じる世界へ”という”人間らしく助かろう。成ゆきを尊びきずく今日”とこれが大きく書いてそういうふうに書いてなかなかすばらしい文章で合楽の事を紹介しておられます。中に、善し悪しにつけ評判の高い合楽教会というような事が書いてあります。善い事もたいへん評判が高いけれども、又悪評も非常に高いという意味の事が書いてあるんですけど、全くその通りですからね。
 そしてその合楽の信心を分かるため先ずこちらの合楽の若先生達兄弟四人の話を聞くとして各々からその先生方のいわば合楽理念を語ってもらうと云うのでまあ語ってもおるもようがそれに竹内先生と佐田先生もそれに入ってその対談がずうっと書いてこれを四回、四回、にわたって書くそうです。こりぁどうでも金光青年、青年だけじぁなくて、今度だから百冊からこちらで注文し取るそうですからおそらくここ一両日で来るでしょう。皆さんもぜひあの百五十円だそうですからかい求められて、そして合楽理念を知ってはおるけれどもこのようなふうにまとめて人にでも話せれる位なものを合楽理念を語って下さいというてもなかなかねですけれどもそういうこうして、活字になっとりますから、此の頃からは、あいよかけよですからあれに武内先生が書いた合楽理念というのも、これも大変長い文章で書かれておるとにかくその合楽理念がこれが全教的にこうしてあのう云うならばピーアールされておるという事です。がなるほどと合点が行くようになったら私は天地書付が生きてくると思うです。ただお題目だけではなくて、ならおかげの頂ける世界。しかしおかげだけではない合楽し合う合楽の世界、神様と氏子を喜びあえる世界。そういう世界がはっきりこう浮き彫りにされてくる。金光教の信心はこれだという事になるだろうと思うような記事であります。だからそれをなら今日皆さんに丁度幸に、幸というか天地書付の所を頂きましたから、昨日中野さんに書いて差し上げた天地日月の心。その天の心地の心日月の心とはいわば簡単に美しい心である、土の心で黙って治めることであり、もうそしていうならば実意丁寧にねなら生活の信条ともそれをさせて頂かな、それだけの事なんだ。それを一生懸命にね、云うならば行じていくという行じる何故行じられなければならないか、こういう心がけになると誰でも、昨日の御理解じゃないけれど構えさえ作れば誰でもがそういう信心にこうは入っていけれる。どんな汚い人でも云うなら根性の悪い人でもだんだんだんだんそういう和賀心という云うならおかげの頂けれる合楽世界に住む事の出けれる云うならば道づけのようなものが合楽理念である。そういう事がいろいろまあ面しろうおかしゅうまあ子供達がその一人一人の性格をね表現したような発表を致しております。それが記事になっとるんですね。
 昨日は、一昨日のくの一会の御大祭、昨日伊藤さん御参拝してみえて昨日聞かせて頂いた事ですけども、親先生今度の御大祭ばっかりはくの一会にいつも見える方達ばっかりで一切が出けました。神饌物から何から一切もうただただ恐れ入ってしまうと。ご用もくの一会の若い方達ばかりでして下さって、もう本当にもったいない話ですという事でございましたね。それでわたしもまああそこでちらっと申しました事でしたけども、よう一年間でこれだけの信心が育ったなあと私は思いましたが、昨日研修の時に、あの伊藤さんの信心のどこがああいうすばらしい信心に進んで、なんと金光教の信心を語るとか合楽理念をかたりなさいと云うてもそりあなかなかぎこちない、あのう垢抜けしたものではないでしょう。信心が浅いまだ短いですから。けれどもね、いよいよ伊藤さんの場合はぎりぎりもう本気で信心を求めての信心姿勢であり、構えであるという事です。昨日私、子の先生方にその云うなら一年間であれだけの云うならばお育てを頂いておられるのを云うならばその秘密のようなものはどこにあると思うかというて皆一人一人に聞いた事です。
 ねそれはやっぱり天性的なものですね。美しい心を持ち合わせておられるという事です。所が美しい心を持っておるという人はなかなか信心しませんもんね。自分なもう悪いことはせん、まあ美しい心を持っとるもんぢゃから。自分は親切が強いとこう思うとるからなかなか私しゃ神様やら仏様やら拝まんでんもうというような所があるんですよ。かえってね根性の悪かつやら汚い人が信心する。皆さんが汚いとか根性が悪いという意味じゃないけれどもね、そげんとが多かですばい。信心する者にや。
 だからそれが間違うと後生根性なるわけですたい、いよいよね。だからそれをなら合楽ではそげな心がけではいけないよこうではいけないよとまあ微に入り細にわたって説かれますから、ね誰でもが容易ういうならば和賀心になっていけれる手立てが合楽理念です。今までかつて教えられた事がなかった。それを例えば昨日中野さんに書いて差し上げたように天の心とは地の心とは日月の心。それだけなんですから、そこに焦点をおいて日常生活には入っていく事なんです。所がおかげを受けんならん頂かんならん事ばかりはどうぞどうぞというけれどもその教えを本気で守ろうとか行じようという事にはどうぞどうぞという事にならん。
 昨日ある先生が云ってましたがとにかく親先生のおっしゃる事は冗談でもです例えばはあそうですかと云うたら早速伊藤さんの場合は実行が出来ておられるという事。そしてそれを現していかれるという事。いうならばお互いにはそれが欠けておるんですけれどもそういうならまあ云うなら美しい心の人が信心をするもんですから信心が進むはずである。ねそしていてそれに美しい心になお一段と教えによるみがきかけていかれる。そこん所だけに云うならば焦点をおかれる。ここの信徒会館の御造営という話が出た時点からもう云うなら御造営にかけられましたですね、大きな目標を作ってそれに向かって云うなら一生懸命ご用をされました。まあだ今日も続いております。そん為には化粧品一つ買いません自分の身につける物は一切買わんというもうその時点からそういう修業には入られました。どうぞおかげを頂きたいそん為には御用もしますというのとは違うわけ。ね
 昨日ある先生が云ってましたが、とにかくここで今いわれるその責任においての御用が信心を育てるといわれるが伊藤さんの場合は全くそうだと天の心を持ち合わせておられる上に地の心を云うならばくの一修業で鍛うて行かれておる。そこになら集る人たちが本気でくの一修業を身につけようとする人達が集まってくる。ねだからなさる御用でももうあのうしようことなしのもんぢぁない。打ち込んでの事である。ね天の心を持ち合わせておる人がならここで合楽、云うなら自由自在にね、それこそ変貌自在に有難い有り難いで受けていけれる云うならば黙って受ける土の心が出けたらもう鬼に金棒ですね。勿論これはあのう高められるとか深められると云う事には限りがありません。ねしかもなら合楽で云われるなら責任においての御用と云うものが今日のならおかげの状態でもあらうあれだけ信心を育てた事にもなるという事になります。ね信心が真の信心が分かりたい分かりたいち云うなら先ず今日私が皆さんに聞いて頂くような所に焦点をおいてですね、云うならばおかげの事は願わんでんよいか願おうちゃならんぢゃなくて願いながらでもその願いに匹敵するだけの信心をね頂こうとするその信心の目標が天地書付なんです。ねそういう意味でならなるほど伊藤さんの信心が育つという事の育つための条件をねいろいろにおいてこう持っておられる備えておられるねそれをならそのまあ一口で云うと天地日月の心になる事肝要であると同時、肝要であると分らしてもらうて、そしていわゆるこの天地書付に自分でも取り組んでおるというふうにぁ思うちゃないかもしれんけれどもまあ、私共が見てみて取り組んで、そういうふうに取り組んでおられるように見えるのです。
 昨日修業生の方達がその事について発表しとるのも皆そういう事を申しております。ねだから皆さん本気でね信心の稽古をしようその目当てをね天地書付におこう。なかなか難しい、日に何べん何十ぺんこう天地書付を唱えておるか分からん程皆さんも唱えておられるでしょうけれども唱えておるだけではいかんそれはそれならしめる為に、いうならいよいよ天地日月の心であり、その天地日月の心をいよいよ分かる為には合楽理念をいよいよ体得いわゆるマスターしてその手立てを身につけていかにぁならんという事になるのです。 日々云うならばおかげの頂けれる心の状態をいつもこう見ておれるように、この何かを書いて下さいという中野さんが例えば私が細やかに書いてやった天の心とは地の心とはというような事に精進しておいでられるやっぱそれが出けていきよんなさると思うですね。
最近なんか例えば事故にあったら痛うなかったちゃ痛かと云うて病院代の見舞金を取ろうというようなのが多いでしょうがね そしてならその遊び人を使ってからでもそれを取ろうとするようなお届けがここでもいくらもあってます。そういう中にあってですもうあのうここへ見えた時には血みどろになっとっちゃった顔が。それをあそこでその手洗いの所できれいに洗ろてからここへみえられたんですけれどもその自分で何ぢゃったか何かをはね飛ばされた時になくされてそれをあのう探しよる中に泥の中でこう泥だらけになっておられましたがあのういいやもうあなたが悪いのぢぁない私が年寄りのぼとぼとしとるから、ご迷惑かけました早う行って下さいといえれる心が私は和賀心だと思うですよね。そんなら送りましょうち云われただけない、よございますすぐ教会のすぐそこの教会に参りよるとぢゃけんと早う行って下さいち云わっしゃったげな。ねこりぁ和賀心にならなければでけん。だからそういう一つの精進の心がありますからいつの間にかそういうものを身につけていかれる事にもなったのでしょうがね、
私共はいよいよいよゆる天地書付は金光教のものだけではない、あらゆる宗教がその元目である所をこう天地書付におくようになったらほかの宗教でも生き生きした有難い働きがおかげが受けられるようになるのぢぁないかというふうに思います。これはまあいうならば総人類のね私が和賀心時代を世界にとこう云ってます。
 だから人間の幸というのはこの和賀心にならなければ和らぎ賀ぶ心にならなければもう絶対幸にはなれないんだよと私は分らる事の為に和賀心学という学問を作らにぁいかん。それで子供達のまあ小学校の時から和賀心とはという勉強をさせにぁいかんそして出ける出けんは別として人間の幸は和賀心をはずしたのでは幸にはなれないという事を分からせるような運動。それがおこされなきゃならんのぢゃないかというふうにね、
こりぁ私の夢を云うと限りがありませんけれどもいよいよ和賀心時代を世界に 為には先ずなら合楽に御縁を頂いとる方達が和賀心の世界を自分の心の中に自分の家庭の中にそういう世界をおし広げていきたいと思うですね。        どうぞ